ネクタイ考
大学でも,ネクタイと背広は教官のユニフォームとでもいうべきものである。学会等でよその人に会うときにはもちろん,仕事場においても何となく着用することになっているようだ。私も,教官室では,教授の先生方の目を気にしてネクタイをする。夏の暑いときにはかなり苛酷な忍耐を必要とするが,ネクタイは必要最小限の身だしなみである。涼しそうな顔をしてスーツを着るのは一種の美徳といっていい。妙に軽装で人に会ったりすると非常に気まずい思いをすることもある。しかし,人に会うことも少ない土曜日にはノーネクタイで研究室に出ることも多い。たまによその人が訪ねてくると,大学は気軽でいいですね,などという。まあ今日は土曜日ですからね,普段はきちんとしているんですよといってごまかすことになる。
もっともネクタイを着用すべしという決まりがあるわけではない。ではいったい,ネクタイにどんな効用があるのだろうか。きちんとした服装をすると気持ちが引き締まる。身なりがだらしないと仕事や生活の態度がだらしなくなる,というのがその最右翼であろう。しかし,これはかなりの消極的な理由である。本来,服装と仕事上の能力はあまり関係がないはずである。研究上の着想は,自由な服装をしている土曜日の午後や,普段着でちょっとアルコールも入って議論しているときにひらめくことが多いようである。従って,逆の意味で,服装と仕事の相関はきわめて深いのかも知れない。
ネクタイをしていると発言が慎重になる。ざっくばらんな意見はいいにくい。ネクタイを弛めてからの方が本当に言いたいことが言いやすい。ネクタイはジェスチャーの妙を生むための道具にはなりうる。
よく似た議論はたばこにある。恐るべきことに,ひと昔前までは,たばこの害に対して社会は実に寛容であった。たばこの功罪については山ほどの論説が出たが,功の中にはもっともらしいものもあった。たばこを取り出して火をつける。それをおもむろに口にもってゆく。間合いを図る。これがさまざまな局面の打開に実に効果がある。文字どうり煙に巻くわけである。しかし,煙に巻かれない人もいるから真偽の程は疑わしい。海の向こうでは,たばこと肥満はだらしない人格を反映する,という無茶苦茶な議論がまかりとおっていた。これも考えてみれば変な話であって,本来人格とは何の関係もない。太っていてたばこをのむ人でも立派な人は何人もいる。しかし,喫煙する人は確実に減っている。要するに社会的なモラルの問題である。元専売公社の収益と,医療費の増加分とを差し引きし,国家としての損徳を厳密に計算した結果ではなかろう。しかし現在の傾向はきわめて喜ばしい。ゆくゆくは消滅する方向に向かうのであろう。事実,学生でたばこをのむ者は明かに減少している。彼らのコンパに招かれると,数年前まで常識であった,もうもうたるたばこの煙は今ではまったくみられない。ただ,その理由は少し異なっている。たばこは何の益もないからのまない。しごく単純でもっともである。若い人は益のないことはやらない。
さて,わがネクタイはおよそ機能的ではない。第一ぶらぶらする。考えてみれば背広というのも変な服装である。下の方がぴらぴらしているので危ないくらいである。手元がゆるいのでばたばたする。すぐに着脱できるので体温の調節に便利なんですよという人もいる。私もそう思うが,これは背広に特有のものではない。夏場の暑いときにもきちんとスーツを着ている人を見れば,さすが×××ともなれば大変だなあと思う。半ば同情にも似た畏敬の念を抱くのである。
ネクタイをしめ背広を着ていると確かにきちんとして見える。その原因は何だろう。長年の習慣でわれわれがそう思うようになってしまったのである。百年ほど前のきちんとした服装は,今とは全く似ても似つかないものであった。体のまん中にとおる一本の筋は心理学的に男性を凛々しく見せるのかなあとよく思うが,この解釈もどうも的はずれのように思う。
われわれがネクタイを止められない本当の理由は何だろう。およそ自分の職場を服装によって表現する必要のない人までが,どうしてネクタイをするのだろう。
皆で渡ればこわくないという自虐的な標語が流行したことがある。不愉快であるが,われわれはそのような情動をもっていることを認めざるを得ない。その底に流れているのは,自分のまわりの比較的小さな集団から仲間はずれにされることへの限りない恐怖心である。それと,同じ精神がネクタイを不動のものにしていると考えられる。この精神は良かれ悪しかれ日本的といわれるものである。ネクタイの着用を求める人も,だまってそれを着用する人も,変った人間を排徐しようとする同じ精神をもっている。案外こんなところに我国の後進性があるかもしれない。ノーベル賞を絶対的に賞讃する一方で,エリート教育に対しては恐怖にも似た嫌悪感を抱く。さまざまな形の標準化を求める異常とも思えるほどの執着がある。そういえば,最近ノーベル賞をもらったMITの利根川博士は,来日記者会見ではネクタイをしていなかった。
幼稚園や小学校の制服は,背筋が寒くなるような奇妙な印象を与える。一方では,自分の子供がよその子供と同じ服を着て同じように遊ぶのを見,集団生活にとけこんでることに安心する。運動会で少し速く走れば大いに喜ぶ。子供席でとび跳ねたりしているのを見ると,しょうがないやつだとその将来を憂慮する。ほとんどの部分で共通であることを大前提としながら,わずかな違いを愛でる日本社会の構図がすでにある。社会性ということ自体は工学者としても非常に重視される基本的な教養があって,かねてより理学者との大きな違いとされている。しかし,これからもそれだけではよいということにはならない。
ネクタイを止めるとどういうことになるだろうか。まず,毎日の服装に気を使わなくてはならなくなる。大げさにいえば,服装のセンスを問われる自由競争の世界に入ることになる。現在,女性には強要しているといってもいい服装の自由という煩雑さを男性も負わなければならなくなる。ネクタイと背広は服装の自由度を著しく制限しているが,逆に,ネクタイと背広さえしておればまずまちがいはないという点できわめて安易なものになっている。その一方では,ネクタイの色とか背広の生地には結構気を使う。ほとんど共通した構造の中に,わずかな違いを生み出してそれを楽しんでいるのである。これはきわめて消極的な態度である。服装が自由になれば,我々はネクタイさえしておればよいという安易な気持ちを捨てなければならない。学生を卒業して突然社会に飛出した若者のように,一変して服装に責任をもつ義務を負い,その煩雑さに耐えなければならなくなるのである。 ことは非常に困難である。服装の自由度が一挙に数十倍になり,標準化された服装に甘んじることは許されなくなる。
学生達は,いわゆる自由な服装で講義に出たり研究室で仕事をしたりしている。服装に無頓着な学生もいるが,決してよくは思われない。私がみると同じような普段着に見えるが,少し若い世代に属する家内にいわせると,センスのいい人とそうでない人とは非常に差があるという。一見してだらしないなあという者はいないように思う。みなきちんとしていると思っていた。ところが,私のわからないレベルで,歴然とした身だしなみの善し悪しが評価されているようである。われわれ教官はネクタイさえしておればよいと考えているので,ファッションの世界からは無縁と思われているのである。
ところが,この学生が,就職をして社会にでるととたんに立派なスーツに身を包み,土曜の午後などに顔を見せにくる。学生が卒業してひとつの社会集団の属したことを誇るのも楽しみの一つなのである。夕方から一杯飲もうやということになる。こちらはセータであるし,中には相当老けて見える者もいるからどちらが先生かわからない。よくみるとずいぶん工夫していいものを着ている。就職したとたんにわずかな違いを愛でる社会に入ったのである。定められた枠の中で工夫せざるを得なくなったのである。これが社会人ということなのであろうか。
本当は何が重要なのかといったことを真剣に考えてみなければならない。ネクタイはどうだろう。こんなものは止めてしまった方が言いのではないか。ネクタイを止め自由市場を持ち込むことで何らかの活性化がなされる。みんなネクタイをしているのだから止める訳にはいかない,第一相手に失礼に当たるといった態度はつもりつもって組織の膠着化につながる。お互いに失礼とは思っていないはずである。約束ごとという目に見えない社会の確執に呪縛されているだけである。積極的な理由は何もない。今日一日の仕事の予定を考え,自分の気分に最も適した服装をして出かけるくらいの余裕を持ちたい。
社会はますます複雑化した巨大システムになっていくから,さまざまな妥協の上にシステムが成立つようになる。何かを変えようとすればどこかが悪くなるのは当然である。悪くなる点をたくさん指摘し,それを理由に変革を止めてしまうのは容易である。全体をできるだけ総合的に評価して,もめごとを決めなければならない。これは工学的なセンスと相通ずるものがある。たとえば,交通機関の安全性は工学の対象となっていなかったという指摘がある。安全性は,所要時間・エネルギー消費・快適性など他の多くの設計要素とは別の次元にあった。安全性は高ければ高いほど望ましい。しかしこんな議論もある。同じ人数を,同じ距離だけ運ぶのに,鉄道は自動車より3桁安全である。鉄道の安全性は過剰に高い。これを半分にしてコストを下げれば運賃がうんと安くなる。自動車に乗っていた人が鉄道を利用するようになる。その結果,全体の安全性は飛躍的に改善される,というものである。
文部省の人には大変悪いが,科学研究費補助金の申請書類には細かい規定がきわめて多い。毎年毎年書いていても一回でOKとなることはほとんどない。事務の人の手を何重にもわずらわしやっと提出にこぎつける。これは,ミスをなくするということがきわめて大きな評価関数になっているためであろう。どこかネクタイに似ている。末端レベルで書式を守れば,その先のトラブルが生じないので結局現状が一番いい方法ということなのかもしれない。もし手抜きをすればいろいろまちがいや無駄が生じるだろう。その危険を避けるために膨大な労力をかけるという,ミスを許さないシステムなのである。しかし,先端的な研究には,本来無駄なものが相当含まれているはずである。無駄になってしまう研究に金を出す危険性が生じたり,ひょっとして悪いことをする人も出てくるかもしれない。けれども,長い目で見て真の効果を挙げるためにはどうすればよいのか,きちんと議論するべきであろう。どうも現状は最適ではないような気がする。
こんな一面だけを強調し,それこそ全体を見ない悪口を書き並べるとは全く大人げないと思っている。数年後の良み返せば顔から火が出るだろう。また,実際にはずいぶんたくさんの補助をもらっているから,こんなことをいうと相当気を悪くされる人も多いと思う。しかし,河上記念財団のような民間財団からの補助は,きわめて簡単な書面でもって審査されているようである。(決して厳正ではないという意味ではない。)当然リスクも大きく,海のものとも山のものともつかないような研究に与えられる補助金もあるだろう。
私が補助をいただいた研究テーマも,そんな海のものとも山のものともつかないような研究である。決して研究費に恵まれているわけではないので,若い頃の自由に使える研究費は大変貴重である。全然ものにならないかも知れないし,もう残金も少なくなってきた。しかし少しは面白い結果も出るようになった。40周年,50周年,あるいは生きていれば100周年記念の折には,何か報告できるようなものになっているかもしれない。そのときには,ネクタイをしないでご報告申し上げたいと考えている。