研究者を目指す普通の学生諸君に


 『卒業論文は努力賞でもよい,修士論文はうまくいかなかった内容でもまあよい,しかし,博士論文には努力賞はない.失敗したものや説得力のないものはダメ.』これは,小生が論文審査に設けている大雑把な基準である.
 ・・・と書き始めてしまったので,編集委員の意に反して真面目な文章になりそうだ.研究観ならまだしも,結婚観とか,子供は何人いるか,果ては女の子のくどき方まで,居酒屋で話すような柔らかい話をさせようとしたけらいがあるが,今回は許されよ.おじさんも年を取ってきた.
 ちなみに,物理的に許す限り,子供は多ければ多い方がいいんじゃないでしょうか.今の世の中,たくさん生んだが故に育たないという話は聞かない.多難な人類の未来も彼らが切り開くのだから切り開く彼らが存在しなければ未来の人類も存在しない.5歳ともなればもう全く別の人間,彼の人生は彼のものである.子離れの方が大きな課題である.
 諸君の中には,博士課程に進むと経済的に大変である,就職が心配だ,そして婚期が遅れるといって悩んでいる者がずい分いるだろう.われわれもその改善が急務であると思っている.しかし改善には時間を要するから,少なくともこれを読む人には間に合わない.ここでは,せちがらい話をしばし忘れ,研究者にとって重要なことは何であるかをちょっと真面目に考えてみよう.これは,私も含めて,天才ではない『普通の人』が,研究者としてやっていくためのマニュアルである.

(1)一流の研究者は一流の人間

 『われらは世界的教養人としての高い知識と深い徳性を磨かんとする学生の集まりである.(愛光学園,われらの信条より)』世界的教養人,このくらいの気概を持とう.
 健全な研究は健全な人間に宿る.考えてみれば当り前であるが,案外そう思っていない人もいるだろう.人間的に少しおかしいけれども,研究能力は抜群である人を賞讃する向きもあるが,それは,研究の方が非常にご立派なきわめてまれなケースであって,普通の一流の研究者は人間的にも優れた人が圧倒的に多いのだ.人間を磨かないで研究だけを磨こうと思っている人は,まず失格.

(2)つまらん研究をする人はつまらん人間

 (1)の逆である.『この人しょうもない研究をしてるなあ.』と思うとき,諸般の事情を慮りながらも,状況を打破できないでいる研究者その人の人格を疑ってしまう.
 研究がうまくゆかないのはその人の責任である.指導教官のせいでもない.自分のふがいなさが研究をつまらなくし,行き詰らせているのである.責任はもちろん自分にある.
 スランプから脱出するに王道はない.涙を流してへばりつくしかない.気分転換に遊んでみたって,スランプから脱出できるはずがないじゃないか.こんなこともわからない者は,研究者としてはまずやって行けないだろう.

(3)結果がすべて

 研究に努力賞はない.いくら努力しても,結果が悪ければ何にもならない.
 逆にいい結果さえ出るのなら,何をやってもよい.朝だらだらして昼から出勤してもいい,いい結果さえ出せるのなら.そして,君の行動が,研究室メンバーの生活態度,ひいては彼らの研究態度に何の影響ももたらさないと確信できるほど,君がつまらん存在であると認めるのなら.
 〆切りに間に合わなければ全くナッシングである.いつも〆切りに遅れる人は要注意である.ましてや,『自分はせいいっぱいやったんだ.何か目には見えないけれど何か大切なものが身についた.』と自己満足する人はさらに要注意.そう言ってなぐさめてくれる指導教官も要注意.

(4)自分を評価するのは自分ではない

 残念なことに,君を評価するのは君ではないんだなあ,これが.
 実は私はそう思っていなかった.『他人が何を言おうと俺は俺,ほざけ批評家,わが道をゆく.』という調子だったはずだ.当時,卒業論文の研究室であった宇都宮・曽根研究室の助手をしていた星野洋先生(現,東京電機大学教授)には,礼儀作法から始まり何かといじめられたが,きわめつけはこの言葉であった.今では心より感謝している.
 研究者になろうとする人は,悲しくも厳しく,正しいこの現実をよくかみしめるべきであろう.

(5)生活を律する

 いい結果さえ出せるなら生活はすさんでよいか.答えはノーである.生活がすさむと絶対にいい研究はできない.できる人は凡人ではない.100年に1人位はいるかもしれないが,君も私もおそらく凡人,天才を目指すのは止めよう.
 昼頃ふらっと現われて,夜中から明け方までクリエイティブに仕事して,午前中は仮眠して,・・・そういう人は本当に自分のことだけ考える人だね.学生さんは流されやすい.川の流れのように,高いところから低いところへ止めどもなく流れゆく.君を見て,研究室はどんどんくずれてゆく.罪は重い.
 朝早く起きよ.これは全く純粋に意志の強さの問題である.朝の遅い奴は純粋に意志が弱いだけだ.夜はだらだらと研究しないでさっさと帰ろう.研究室の掃除をせよ.机の上をきちんと片付けよ.酒を(ある程度)断て.研究をそこそこにやろうなんて思わないことだ.没頭せよ,心身ともに没頭せよ.長い,長い,ひとかたまりになった時間の中から新しいアイデアが生まれるのだ.ひとかたまりの長い時間が作れなくなったら研究者生命は終りだ.(やばいなあ!)

(6)世の中の役に立つ

 三田出版会から出ている『科学技術を先導する30人より』という本の中に,小生の講座の茅陽一教授(現,慶應大学)の話がのっている.
 ・・・数年前に先端技術ブームの一環として,バイオテクノロジーにもにわかに期待がかけられるようになり,ある研究所にも突如として実用を目指す研究が求められるようになった.ところが,『アカデミック指向の研究者の中には,生物学では実用に役立つ研究は堕落と思っている人も少なくない.』という所長の言葉に,先生は驚いたように口をはさみ,『そうですかねえ,物理学ではアカデミックな研究者でも,心の中ではそれが人々に何か役に立つことを願い,そうした姿勢で研究しているはずですけどねえ.』と言われた.

(7)本当に何が大切かを考える

 自動改札機の導入にJR東日本は積極的である.自動改札機はキセル防止と省力化をねらった最新の技術であるというが,小生はネガティブテクノロジーだと思う.
 自宅のあるJR我孫子駅では,保線区から線路をまたいでちょいちょいとホームに上がれば6分は早い電車に乗れる.帰りも同じである.改札口を通るためだけに,毎日非常な遠回りをしている.
 いったい何が大切なのかを本当にまじめに考えよう.ヨーロッパのような,改札自体を無くすシステムを早急に考えるべきであろう.乗客のモラルの問題でもあり,まだまだ無理かと情けなくなるけれども.

(8)よくしゃべること

 おしゃべりであることは,とくに工学の研究者にとって非常に大切である.日本語でも英語もおしゃべりであること.英語力はしゃべりたがり度のバロメーターである.研究能力は高校の現代国語の成績に強い相関を持つという.
 海外に出よ.休みを取ってヨーロッパを旅せよ.絶対に2人以上で行くな.必ず1人で行かなければ,大金をドブに捨てるようなものだ.
 しゃべることは人間の基本であり,場を持たせることは思いやりの心そのものである.沈黙は禁なり.ろくな研究もしていないのに,しゃべりだけでがんばる人もいるが,それはいずれはボロが出る.しかし,しゃべらないことには何にも生まれない.
 研究者は,強い説得力を持つことが絶対必要である.相手に面と向って自分の意見を述べ,相手の意見を聞いて議論しよう.毎日電子掲示板(今はホームページか)を読んでニヤニヤしている君,ちゃんと人間と話していますか?

(9)人生は最適化できない

 人生の評価関数はスカラーではないから最適化はまずできない.さまざまな局面におけるローカルオプティマムの積み重ねは,トータルオプティマムにならない.就職もしかり,最適化できるはずないじゃないか.私も君も知らない君の未来.人生は一度しかないけれども大したことができる訳でもない.たまたま縁のあった所に行こう,何とでもなるさ.人生そんなに大切にしてもうまくゆかないよ.結婚も同じだったよ.結婚してからが大切なんだ.

(10)博士課程の意味

 こういう世の中だからね,一応生活には不自由しないし皆んな何をやっていいかよくわからない.よくいうでしょう,研究テーマを見つけることが半分以上,テーマが決まったあとは肉体的に苦しくても精神的にはものすごく楽なんだ.忙しいときは楽なんだよ.暇なときが一番苦しい.
 『夢を描く』ことを商売とするのは非常に大変だ.研究には夢がなくてはいけないが,これは話が反対だ.夢のない研究はむなしい.いま,あなたの夢を語れと言われて,一つも言えない人は研究者には向かない.
 極端にいえば,次に何をしようかと考えること以外は全部雑用だ.ところが雑用も結構楽しい.僕の場合だと,講義や講演でみんなに自分の考えを伝えること,学会の活動をすることみな楽しい.だからそれにおぼれてしまってね,本当に大切なことを見失ってしまうのだ.優等生を止めてサボリマンになろう.もちろん本当にサボってはいけないよ.
 研究は全部自分でやるんだよ.指導教官は一番身近にいるライバルだ.博士課程は,ほとんど制約のない状態で,さて自分は何をしようかを考え,それを組み立てる人生唯一のチャンスだ.人間の真価はそこで決まる.そのために,高い学費を払ってひとかたまりの時間を買うのだ.ぼんやり過ごすためではないのだ.
 エンジニアの給料が安いことや,経済的に自立できないことが博士課程に行く意欲をそいでいるのは事実だから,われわれは真剣に考えないといけないが,実際には修士・博士の5年間のロスは,あっという間に取り戻すことができる.学部で就職しても5年くらいはあれよあれよという間に過ぎてしまう.
 婚期が遅れるって心配する奴がいるけど,学生時代に恋人のひとりもいない奴は,どうせ晩婚だよ.だいたい相手が欲しいと思っていていないのは,極端にいえば努力が足りないんだからいなくて当然だよ.欲しければとことん努力し,いちいちのめり込まなければ相手に見向きもされないよ.恋愛だって命がけだ.何もしないで指をくわえて見ているだけだったら,単なる無いものねだりだ.

 折しも今週から週休2日になることが決まった.2日の休みは心身をリフレッシュさせるはずである.しからば学生はどうか,研究者はどうか.独創性,創造性と研究時間は無関係ではない.両者は正の相関をもち,かつときどき不連続に変化する.研究者は24時間戦う.余暇と堕落は全く違う.生活を律して研究を律せよ.

 以上,『研究者を目指す普通の学生諸君』に贈る,多少時代遅れのエールである.

(電子情報通信学会 学生報,第21号,1991.2.25)