2020年の工学ビジョン -いくつかの論点-


 WGでのいろいろな人のお話を参考にし,近未来の工学は「こうなるだろう」ではなく,「こうあってほしい」という観点からいくつかの論点を述べる。

(1)差別される工学

 自動車,テレビ,エアコン,コンピュータネットワーク,鉄道,発電所…,必要なものであることは百も知りながら,まっとうな人間のやるべき仕事ではないと思われているのではないか。これは,人殺しをするかも知れない自衛隊,屠殺業にたずさわる人々への差別とまったく同じである。自分がやりたくない仕事には目をつぶり差別する。感謝もしないし正規の組織にも入れない。これは最も恥ずべき日本社会の恥部である。ついでに言えば,外国人学生を定員に入れないのも根は同じである。
 まさに工学がそうなりつつあるのではないか。電線を地中化して見えなくしたり,コンピュータを意識しない世界を作ることを目的としたりしてはいないだろうか。医者や政治家の究極の目的は,医者と政治家のいらない社会を作ることだろうか。否,彼らは歴然と存在し,収入も多く地位も高い。どうしてそうなったのか考える必要があるし,工学の社会的な地位を高める努力をしなければ,若者の理工系離れは止まらない。われわれはあまりにも謙虚でありすぎたのかも知れない。
 法学部の学生は,司法試験のための予備校(ロースクール)にパワーを注ぎ,「法学的ものの見方」を教える法学部教官の講義には耳をかさないという。社会の要請は法曹界で働く人材の大量生産であり,法学部ロースクール化構想が出てくる由縁である。一方,医学部では,国家試験に受かる現場の医者を大量生産することに忙しく,基礎医学を専攻する人は育たない。そういう人材は理学部や農学部から輸入してしのいでいる。これはこれで問題視されている。
 幸いなことに工学部には両者が混在している。「工学的ものの見方」を教えたい先生は多いだろう。どちらかになる必要はないと考える。工学は応用理学にとどまらない独自の意義を持ち,またprofession(専門職)でもあるのだ。この二つは,少なくとも一個の人間には共存させなければならない。発現するときの強弱は人によって異なってよい。盲目的なサイエンス指向は禁物である。

(2)backbone engineering(基幹工学)と probing engineering(先端工学)

 現代社会を支えている重厚長大産業は,いま,軽薄短小産業に押され,学生の人気も芳しくない。昔は油にまみれた学識経験者も,そろって世の中はこの方向に進むと説く。19世紀は機械の世紀,20世紀は電気の世紀,そして,21世紀は情報の世紀であろう。しかし一個の人間は一足飛びに最後の段階に飛んではならない。系統発生の歴史は,一人一人の個体発生において正しく繰り返さなければならない。
 工学部ではいま,学科の名称変更と再編成に非常なエネルギ−を費やしている。皮肉なことに,かつて真新しい響きをもっていた,情報,システム,環境,生命…,こういう言葉をくっつければくっつけるほど,アイデンティティが失われ焦点がぼやける。ぼやけた名前の学科の卒業生は早晩「雑の部類」に入り根のない人材として重宝されるだろう。それが社会の要請ならば仕方ないことである。
 土木,建築,化学,金属,機械,電気,このような工学をbackbone engineering(基幹工学)と呼ぼう。これをしっかり持ちつつ,probing engineering(先端工学)をやり駄目だったら引っ込める。そういう仕組みでなければならない。先端のうち一割も育てば上等である。probing とはそういうものである。100%うまく行くと思ってはいけない。
 なお,情報は,あっという間に,かつての機械,電気の来た道をたどり,backbone engineering(基幹工学)と呼ばれるようになるであろう。だから一緒に考えよう。

(3)技術開発のあり方とハイテク

 これからの日本社会のキーワードは,高齢化,ハイテク,国際化の3つであると言われる。中でも高齢化は最も深刻で急を要する分野である。高齢者は特別な人ではなく社会を支える大きな柱となる。2020年には人口の1/4が高齢者(65才以上の人)となり,200万人オーダーの人が介護を要するようになる。
 盲人に便利だろうからと,杖のかわりにソナーを作ると,いつも首を振らなければならないので誰も使わない。風呂に入っているだけで心電図をとったり,ベッドに設けた1個の力センサで体調をモニタしたりするのがよい技術と言える。トイレのドアの開閉回数などでもよい。これらを日常生活において測定しデータ収集をする仕組みが大切である。200万人オーダーになると,テレメータ心電図を開発しても医者はいちいち読む暇はない。機械が読むことが前提になる。老人には元気かという電話をするだけで元気がでる。このようなローテク(適正な既存技術の適用)がハイテクとも言える。こういう技術を軽んじてはいけない。
 いわゆるハイテクの出番は,人の心につながる個性対応の生産技術にある。ベッドと車椅子を自分で移動できるようにするだけで,その人が積極的になり外に出るようになった例がある。介護者の腰痛を防ぐための入浴機械では,心の問題が大きなウェイトを占める。老人に持ち歩いてもらう小さな機械に,自宅の金庫が開いているかどうか調べる機能を追加することで携帯してくれるようになった例がある。広い意味でのマンマンインターフェースであり,心対応のハイテクが必要である。
 介護用ロボットは,機械がしゃしゃりでるものはだめである。手を出すのは人間である。自分が思うように動くロボットがよい。排泄などは逆にロボットの方がよい。入浴,排泄,移動の3大場面において力を増幅する程度のものがよい。安全性は大切である。しかし,応答は遅くてよい,近くに人間がいるからオンオフ的動作でよい。低コスト化の可能性はいくらもある。
 2020年頃に境界領域と呼ばれる分野は,電子工学と心理学,美的工学といったものになるだろう。機械と人間という意味では,体の中に機械を入れたりすることが当り前になるだろう。これからの技術開発には,工学者の考え出すものが使いものになるかどうか事前評価するプログループが必要である。技術のよくわかる高齢者を活用し,大学においてこれをもつのが一番よい。(この節は,斎藤正男名誉教授のお話を参考にした。)

(4)大学のアカウンタビリティと工学教育

 大学は,国立私立を問わず,なぜ税金によって運営されるのか。それは,社会が何かを大学に求めるからである。それは,人材育成と未来の価値創造という2つである。これはギリシャ時代の大昔から同じである。  しからば,大学が社会の評価を受けるのは当然である。しかし,その評価は,まったく外部から行ってもらうのではなく,自ら行わなければ意味がない。そして,そのプロセスを公開することが大切である。これが大学が社会に受け入れられていく唯一の道である。
 高校での個性化・多様化教育が,大学学部教育の弱体化を招いていることは明らかである。むしろ,高校までは均一な基礎教育が必要である。個性化・多様化という言葉は流行しているが間違っている。入試科目を減らすと高校生にはゆとりが出ると,文部省は確信しているが,基礎知識のない人に創造性は決して育たない。これは事実である。
 大学での教育を高校生によく見えるように明確なメッセージを送ることが急務である。4年間で何が学べ,どういう将来があるかということを透明にすることが必要である。この作業が大学の自己評価を促進し,アカウンタビリティの向上につながる。
 学部は絶対に分野を分けた基礎教育がよい。そして大学院は三つ程度の横断的なグループに分ける。学生は迷うかもしれないが,学部がしっかりしていれば問題ない。この2段構えが必要である。基礎教育が先か総合教育が先かという長年の議論は,学部と大学院の役割を分けることによって明確になる。じっさい慶応大学理工学部ではこれを実践しようとしている。その先見性にはうらやましさすら覚える。われわれは年を重ねるに従って,専門が狭まるのではなく,年々generalistになっていくのである。みなさんそうでしょう。
 社会は大学に教育を期待する。研究ではない。教育の方が大切なのだから,教育大学の看板を掲げることは負けではない。研究者の総人口に対する割合は少なくてよい。しかし,わずかの大学では研究と教育は不可分である。その他に職業訓練大学が必要である。高専や科学技術大学を,本来の意味で育てることが大切である。地方では,県庁所在地などに拠点となる研究大学を設けていくのがよい。
 最近の不況は企業から基礎研究所を一掃し,科学技術基本法によって大学には莫大な金が流れている。文部省と科学技術庁が合併するのを機会に,いまこそ,企業が大学を活用する時代である。新しい産学協同の姿であろう。日本の基盤は基幹製造業である。それが工学に対する社会の要請である。

(5)ではどうすればよいか

 backbone engineering(基幹工学)にも probing engineering(先端工学)にも落とし穴がある。保身に回ってしまうこと,ブームになってお金欲しさに大勢が流れることである。大学にはそうならないための何らかの仕組みが必要である。結局いろいろな人と話をし,相互刺激をすることにつきる。議論は議論である。ここに書いたのは今の私の考えであって,当然修正され撤回される可能性大である。腰を軽い方がよい。2020工学ビジョンWGはこんな冊子をまとめなくても,酒だけ飲んでいてもよかろう。事実,WGに参加した人の視野は大きく広がったはずである。WGの最大の意義もそこにあるし,これを全学レベルに拡大すればもっと素晴らしいことになると思う。

工学部2020工学ビジョンWG,98年度のまとめ冊子原稿