インバータのない社会


●マイコン制御のインバータ

 「マイコン制御のインバータ電車が実用になるのはいつごろだと思いますか?」卒論のあとの電気学会全国大会で聞かれた。初めての学会発表だった。

 20年ほど前の話である。卒論は「PWMインバータの電気鉄道への応用」という題目で,大学院の5年間もこの研究を続けた。曽根悟先生にご指導いただいた。先生は,「インバータはどうせ後発部隊だからはじめから全部ディジタルでやろう」と言われた。当時のマイコンは8085,クロックは1MHzで,中身が全部見えるような気がした。1μsの精度をもった任意のPWM波形が自由に出せるようになったので,特定高調波の抑制などが自在にできた。

 201系ができたと言うので見せてもらいに行った。「制御はアナログですか」と質問したら「そうだ」という。「オペアンプを使うんですか」と聞いたら,「マグアンプです」という。マグアンプなんて知らなかったから,後で調べてみたら奇妙なものだった。こんなものが使われているようでは,マイコンなんてとてもじゃないが当面実用化なんてありえないと思った。しかし,あまり先だというのもシャクだったので,冒頭の質問には「20年後」とかなり意地を張って答えた。「ほほお,20年ぐらいでね。頑張って下さい」というコメントをいただいたが,現状はご存じのとおりである。

 電車に限らずインバータはあっという間に生活に浸透し,いまや生活用語となった。子供でもインバータという言葉を知っている。先日,洗濯機を買いに行ったら,DD(ダイレクトドライブ)インバータ方式というのがあった。直流と交流のちがいから始まり,インバータの原理を丁寧に講義してくれた。「そんな難しいことができるんですか」と驚いてみせたが,本当に驚いたのは説明が実にうまかったことである。学会で話してもらいたいぐらいだった。結局買わされてしまったが,家族の評判は至極よい。

 もうマイコン制御もインバータも当たり前である。そのうち,どちらも意識の彼方に飛んで行ってしまうだろう。インバータの存在を意識しない社会,つまり,インバータのない社会はすでに実現してしまっている。


●バックボーンエンジニアリング

 現代社会を支えているパワーエレクトロニクス。いわゆる重厚長大産業は,いま,軽薄短小に押され,学生の人気も芳しくない。昔は油にまみれた学識経験者も,そろって世の中はこの方向に進むと説く。若いときに基礎を勉強し,油にまみれ,年を重ねるに従ってシステム的思考をするようになった人達である。

 個体発生は系統発生をくりかえすという。19世紀は機械の世紀,20世紀は電気の世紀,そして,21世紀はたぶん情報の世紀であろう。しかし個々の人間は,一足飛びに最後の段階に飛んではならない。個体発生は,一人一人において正しく繰り返されなければならない。そうしないとみな根無し草になる。

 いま大学では,21世紀に向けた工学ビジョンの作成,具体的には,学科の名称変更と再編成に,非常なエネルギ−を費やしている。皮肉なことに,かつて真新しい響きをもっていた,情報,システム,環境,生命…,こういう言葉をくっつければくっつけるほど,アイデンティティが失われ焦点がぼやけていく。古い学科名を残す大学は数えるほどしかない。ぼやけた名前の学科を卒業した学生は早晩「雑の部類」に入り,根を持たない人材としてどこにでも使われるようになるだろう。これが時代の要請というなら仕方ない。

 土木,建築,化学,金属,機械,電気…,このような,古い学科名に代表される工学を「バックボーンエンジニアリング」と呼ぼう。現代社会をささえるバックボーンエンジニアリングの重要性は論を待たないが,将来ともこの基盤をおろそかにすることなく,新しい分野を育てる仕組みが必要である。しかし,いま大学でこの論調でものを言うことは,たいへん勇気のいることである。いまや単独の「電気工学科」は強烈なアイデンティティを持っている。皆さんはどうお考えになるか。


●インバータのない社会

 医者の究極の目的は医者のいらない社会を作ることである。政治家の目的は政治家のいらない社会を作ることである。では,インバータ屋の目的はインバータのいらない(インバータを意識しない)社会を作ることだろうか。

 医者と政治家はそうはなっていない。医者と政治家は歴然と存在し,しかも,その重要性を誇示している。収入も多いし社会的地位も高い。インバータ屋は医者と政治家に学ばなければならない。インバータを意識しない社会なんか作っては駄目である。人々が日々インバータに感謝し,インバータ屋が尊敬される社会にしなければ駄目である。

 バックボーンエンジニアリングがわれわれの生活を支えていること,将来ともこれをはぐくみ育てることが大切であることを誰もが理解し,工学者が尊敬される社会を作らなければならない。しかし,そのためにはどうすればいいのだろう。文系を取り込んでいくことでしょうか?一緒に考えましょう。笑いごとではありません。


富士時報,平成11年4月発行