夢を語る:どこでもドア
「どこでもドア」とはご存じ「どらえもん」が胸のポケットから取り出すハイテクグッズの一つである。扉と枠だけのものであるが、ドアの向こう側はいきなり行きたい場所に通じている。空港でくぐる四角い枠みたいなものであるが、そのあと飛行機に乗らなくてもよいところが異なっている。単にドアをふみこえれば瞬時にして目的地に着く。自宅で「どこでもドア」を取り出せば、あっという間に研究室に着き、あっという間に外国に行ける。会いたい人がいれば、どれだけ離れていようとも直ちに会うことができる。
では、「どこでもドア」のしくみは、いったいどうなっているのだろう。
われわれが、デパートでものを選んで誰かに贈るとしよう。目の前の商品がそのまま相手に届くとは限らない。品物の情報だけが相手のもよりの配送センターに送られ、まったく別の、しかし、注文通りの品が送り届けられる。
数万年の未来を考えてみよう。私という物体の情報が、脳の構造やその時点の微細状態までをも含めてこと細かに解析され、非常に高速の通信網を通じて別の場所に電送される。受信側では、きわめてありふれた元素を用いて、全く同じ物体が再構成される。このようにして、私という物体は瞬時に移動する。これが、通勤といった日常茶飯事において、ごく常識的な移動手段となる‥‥‥
いや待てよ。解析され残った方の私はいったいどうなるのか。これはもう不要なものだから殺してしまうのだろうか。もし、本当とコピー?が出会ったとすると、お互いに自分の方が本物であると主張するであろう。これはおかしなことになってしまう。哲学的にも倫理的にも大変な問題である。
人類生まれて150万年、地球上の生命体として見れば数十億年である。この長い年月をかけて進化した現在の生物形態では、「どこでもドア」式の瞬時空間移動はもともと不可能なようにできているのだろうか。そして、瞬時空間移動が可能な他の生物が存在するのだろうか。それとも、この世の中では、量子力学や相対論などからみて、こんなことはできないと諦めるべきなのだろうか。あるいは、こんな研究はやってはいけないのだろうか。
しからば、話をもっと現実的なレベルにもどしてみることにしよう。
真面目に考えれば、「どこでもドア」は未来の交通システムである。交通システムの理想像は「どこでもドア」である。事実、鉄道、自動車、航空のどれもが、常に「どこでもドア」を目指してきたといっても過言ではあるまい。そして、乗客の所要時間の短いものが、常に勝利をおさめてきたことは歴史の事実である。近年の、高速化に重点をおいた交通システムの再構築は、遅すぎたきらいがあるとしても、きわめて喜ばしいことである。快適な夜行列車のようなものも、実質的な所要時間をほぼゼロにするという意味において、おおいに見直すべきであろう。
旅行の楽しみはどうなるのかという向きもあるだろう。心配することはない。通信がこれほど発達しても、心をこめて書く手紙はなお残る。電話の方が便利なものは電話に移ったが、手紙には手紙のよさがある。しかし、大量のデータを瞬時に送れるようになったことによる恩恵は非常に大きい。同じように、「どこでもドア」によって瞬時に移動が可能になったとしても、旅の楽しみが消え去ることはない。「どこでもドア」はわれわれの生活を一変させるであろうが、旅そのものを楽しむ道が失われることはない。私自身、鈍行でことこと行く旅は大好きであるし、これがなくなるようなことはしたくない。
現代は情報化社会と言われる。その中で通信の占める役割はきわめて大きい。多くのマンパワーがその進歩にそそがれてきたし、現在もその状況は加速こそすれ、停滞することはないように見える。多くの研究者の目も情報、通信に向けられている。
工学部の皆さん、『そろそろ自分自身が動く番である』と思いませんか?
通信が発達すれば人は動かなくてもよくなると言われたこともある。しかし、この議論が誤りであることは、通信の発達は、人の移動を活発にするというデータが証明している。われわれは、テレビ会議のような偽物の臨場感に、遠からず不満をいだくようになるであろう。
しかし残念なことに、「どこでもドア」をめぐる状況はきわめて貧弱である。われわれが毎日通勤でいかにひどい目に会い、海外出張においていかに無駄なエネルギーを消費しているかを省みればそのレベルは明らかであろう。家族を連れての帰省が、時間、労力、費用のすべての面でいかに大変なものであるかは論をまたない。そろそろ、情報通信分野に匹敵するマンパワーが、「どこでもドア」すなわち広い意味でのトランスポーティションに注がれるようになってもいいころである。目標は高く持ちたい。行き着くところは「どらえもん」の「どこでもドア」、すなわち瞬時の空間移動である。